北風
冬の枯れ木ほど凛々しく映るものはない。葉を落とし、骨格のみの立ち姿は一見哀れを感じさせるが、
あのゴツゴツと節くれた皮の下には、春を待ち焦がれる樹液が脈々と駆け巡っている。
モラトリアム。この季節は終わりではなく、始まりなのだ。
小春日和と呼ぶに相応しい日差しが降り注ぎ、石造りの城壁もほんのりと暖かい。
そこに背中を預けたフォルデは、地べたに座り込んでスケッチブックと格闘している。
彼は冬が好きだった。理由は単純、冬の絵が描けるからだ。尤も、同様の理由で春も
夏も秋も好んでいるわけだが。
それにしても風が冷たい。頬をさわさわ撫でられる度に、鼻の奥がむず痒くなってしまう。
「ふぇっくし!」
ついに堪えきれなくなって発せられたそれが、彼の手元を狂わせる。
きめ細やかに枝の一本一本を描いていた木炭が、勢い余って予想外の方向へ滑っていき、場違いな線となっていた。
あちゃーとひとりごちるも、落胆の色はかけらもない。まあいいや、これはこれで面白い。
芸術は偶然の産物、というのが、世の芸術家たちに全く失礼な彼の持論である。
「風邪ひいちゃいましたか?」
聞き覚えのある細く透き通った声に顔を上げると、海色の瞳が優しげにこちらを伺っている。
「あれ、エイリーク様…いつの間に」
彼が騎士として仕えている王女であった。デッサンに夢中になっている間に、
ここから5、6歩先の距離まで、そろそろと近寄っていたのだ。
「お仕事に戻って体を動かせば、少しは温まると思いますけど」
「…痛いところを突いてきますね」
仮にそうだとしても、この騎士が真面目に仕事に精を出すわけがないし、
今日のところは彼女もそのつもりはないらしい。たまたま通りすがっただけなのか、それとも…
「フォルデ、鼻水」
くつくつと笑いをこらえる王女に指摘され、すすりながら慌てて手の甲でこする。
しかしここで再びくしゃみがこみ上げてきて、結局倍返し。至れり尽くせりである。
王女もこれには堪らずけらけら腹を抱えていた。
「どうやら、本当に風邪のようですね」
「うーん。重装備してきたんですねどねえ…」
確かに本日のフォルデは用意周到であった。紅梅を思わせる赤い鎧の上から古ぼけた毛布を掛け、
首周りには毛玉だらけの青いマフラーをぐるぐると巻いている。
「…ああ、耳。耳の辺りが寒いんじゃないでしょうか」
中腰となって彼の風貌をまじまじと見つめながら、エイリークはぽつりと言う。
そういえば彼の麦穂色の髪は後ろでひとつに束ねられているので、両の耳は剥き出しで風にさらされている。
なるほど耳かあとしみじみ感心した、その時。
目の前の王女が、不意にその白い両手をゆるゆると差し出して…彼の冷たい耳をそっと、覆った。
「こんな感じで温めればいいかもしれませんね」
ひとり納得する声が、少々くぐもって聴こえる。
かすかに触れるしなやかな指先も、柔らかな掌底も、冬の空気の中で冷え切っていたにも関わらず、
フォルデは自分の体温が急速に上昇していくのを感じた。
それはみぞおちあたりから一気にこみあげてきて、彼女の温めてくれている彼の耳へ、
恐らく一番最後に到達した。本末転倒。
突然の出来事に内心慌てふためくフォルデだったが、やがてその両耳にふと注目する。
鮮やかにこぼれる薄緑の髪、その隙間から、耳の上半分がひょっこり顔を出しているのだ。
「…エイリーク様も耳が寒そうです」
言いながらおずおずと手を伸ばし、今自分がそうされているように、王女の両耳を掌で包み込む。
絹のような皮膚の手触り。艶やかな翡翠の髪に、さらさら絡むように指が入り込んでいく。
その時の、王女の少し驚いたような、しかしゆっくりとした瞬きを目の当たりにして、我に返った。返ってしまった。
互いの頭を抱え合っている、この構図。腕にほんの少し力を入れればどうとでもなってしまうような、
それはまさしく"射程範囲"。
時が悠久へ変わる魔法でもかけられてしまったのだろうか。鼓動の間隔がやたらと長い。
そして一回一回、まるで突き上げるように大きい。
春の海を思わせる、穏やかな青の瞳。間抜けな表情の自分が映し出されているそれの、
吸い込まれてしまいそうな深さに、眩暈のような感覚さえ覚える。
『往け!』
『退け!』
ちりちりと焼けつくような脳の裏側から、真逆の命令が同時に下される。
なんですか、これ。
どうしましょ、これ。
…と、突然。自分の耳をやんわり包んでいたその手に、ぎゅっと力が込められた。
その小さな掌に拠って、聴覚は完全に塞がれてしまう。呆気にとられる暇もなかった。
にこやかに、しかし不敵に王女は笑って、こう言った。
「・・・・・・」
「へ?」
当然、フォルデには何も聴こえない。彼が理解できたのは、口を動かして何かを言った、
という、視覚から捉えた出来事だけ。肝心の科白は、何一つわからない。わかるわけがない。
エイリークは含蓄ある表情を浮かべて、突き放すようにぱっと両手を離した。
そこでフォルデはようやく無音の刑から解放される。
先程の内容について訊ねようと口を開きかけるも、
「そろそろ戻った方がいいですよ。それでは、また」
まるで咎めるようなタイミングでそう言い、王女は逃げるようにぱたぱた走り去ってしまった。
遠くの角を曲がるとき、軽くこちらを振り向いたような気がした。
半開きの口はそのまま暫く閉ざされることはなかった。随分長いこと、
フォルデはただ呆然とへたりこんだままであった。
冬の枯れ木は確かに凛々しい。うっかり引いた線は面白い。城壁は暖かい。鼻水止まらない。耳が寒い。
しかし、そんなことはもうどうでもよくなってしまった。スケッチブックは白紙のままで、
木炭をふわふわ握ったままで、ぼんやりとフォルデは思い耽る。
命題はひとつ。かの王女はあの時何を言ったのか、である。
そうしてその瞬間を頭の中で何度も再生するのだが、考えれば考えるほど、
自分に都合のいい仮説しかでてこない。短い言葉だった。笑っていた。
瞳が潤んでいた(かもしれない)。頬が染まっていた(気がする)。
かくて、男という生き物と妄想とは切っても切れないものと思い知る。困った。本当に困った。
仕事はおろかサボりさえ手につかん。この分だと夜も恐らく眠れない。
「――なんだよ、もー…」
溜め息混じりに呟いて、首を上にあげる。ゴッ、と音をたてて、後頭部が城壁にぶつかった。
ぼんやりと青い空を仰いだら、自然と口が開いてしまった。口が開いたら、
自然と笑い声がこぼれてしまった。北からの風は相変わらず冷たいけれど、
剥き出しの耳は誰も暖めてはいないけれど、どうしてだろう、今はちっとも寒くない。
imagesong:槙原敬之『北風〜君に届きますように〜』
09:みみこ様 結局、エイリークは何と言っていたのでしょう? 「逝ってよし」とかだったら、私がフォルデなら引きこもりになります… |
水月ヨリ 可愛い・・・ッ!!可愛い!!!!! エイリークもですが、サボりも手に付かないフォルデが可愛い・・・ッ!! 「逝ってよし」・・・私も引きこもります・・・。 あぁ、でもそんな黒いエイリークも新鮮で素敵。(ダメな奴です; |